9. 哲学的意味あい
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私は本書の前半で、18世紀及び19世紀の「神は賢者なり」の伝統が誤りであることを示そうとした
本章では、今度は「神は善良なり」と私が呼ぶ伝統に挑戦してみようと思う
私のいう「神」が何を指すのか
私は神を馬鹿にすることで人々の宗教心を逆なでするような無神論者ではない
神学上の議論ではいつも、私は、無神論というものは存在しないと定義するのが好きだ 現在私達のまわりに存在しているような宇宙、それ以外の宇宙ではなく、何もないのでもなく、今あるような宇宙が生じた原因が、どんな存在あるいは存在の複合体であれ、それを神と呼ぶことはできる
創造主としての神をこう定義すると、私たちの持っている一つの証拠を利用して、神の性格を知り、神を評価する作業に踏み出すことができる
その証拠とは、神の創造である
神の創造の証拠に基づき、ペイリーをはじめとする自然神学派の主張とは裏腹に、神が工学の知識に長けていた証拠はないということを述べた 生物は、理解や計画などというものとはまったく関係なしに作られたと考えれば、愚かな誤りや機能上のデザインの欠陥があることが予測されるが、まさにそのとおりのことを示している
神は善良なりという考えも、やはり広く広まっているが、自然選択がすべての機能的デザインのもとになっているならば、この考えも妥当でないと言える 自然化にすむすべての生物のデザインが何を達成するように作られているかと言えば、自分自身の成功
自然選択が倫理的に受け入れがたいということは、そう主張したり納得したりする結論なのではなく、もっと考察せねばならないこと
「すべての意味がわかりはじめたとき、あなたの心は自分の中の砂山の底に沈んでいく。ここには忌まわしい運命論がある、美も知性も、力も目的も、名誉も野望も、何もかもが、恐ろしくつまらないものに還元されてしまう」
生物学的な創造のプロセスはじつに邪悪であると同時に、ショーは気づいていなかったが、どうしようもなく愚かでもある
私達の知的な努力を持って、この邪悪さを打ち負かそうとすれば、これほど理性の足りない敵には勝てるかもしれない
生命の究極の目的は、将来の世代に、自分自身の遺伝子を他人よりも多く残すことだ このシステムでは、成功する遺伝子は、次の世代がどのように発生するべきかのメッセージを供給する
そのメッセージとはつねに「自分の友人や親類も含めた自分の環境を十分に利用し、我々の遺伝子の成功を最大化せよ」ということである
ここから黄金律にもっとも近いようなものを引き出すとしたら「純益があるのでない限り、ごまかしはするな」ということだろう
何らかの倫理観を持った人間ならば、こんなシステムに対して、非難以外のどんな反応をも示さないだろう
自然選択の産物の不道徳さ
青い空と明るい太陽の下に広がる森林やサンゴ礁は、のどかで調和のとれた印象を与えるが、詳しく研究すれば、その印象は崩れ去るだろう 木はほぼ間違いなく、害虫や病気に苦しみ、頻繁にシカやホエザルなど、葉を食う動物の攻撃にさらされているはずだ 森林やサンゴ礁の中で起こっているのは、容赦ない軍拡競争と悲惨さと殺戮の物語
木は種子を作っているかもしれない
繁殖の季節が訪れるごとに、何百、何千という種子を作るだろう
やがて木は朽ち果て、その木と同じような新しい木に取って代わられるだろう
しかし、木が作り出したあの天文学的な数の種子はどうなっただろうか
サルは逆の方向の極端であり、かなりの乳児が大人になるまで生き延びるが、それでもなお、失敗のほうが成功を上回る
今日の人類の生活史において、乳児の大半が大人になるまで生き延びるというのは、きわめて異常なこと
長期に渡って増加率がゼロに近かった
1世紀に1%増加するならば、7000年で人口は倍になり、10万年たてば当初の2万2000倍になるが、こうしたことは起こらなかった
石器時代の生活条件は、場所により時代によりさまざまだったはずだが、青年期の女子は死ぬまでに、あるいは閉経までに、平均して約4人の子どもを生んだと考えてほぼ間違いないだろう
この繁殖スケジュールは、何年もの授乳期間をともない、そのために排卵が抑制されて次の妊娠が遅れ、生涯に数人の赤ん坊しか産めないというもの
赤ん坊のうち青年期まで生き延びるのはおよそ半分にすぎない
病気や捕食者、事故、殺人(敵対する部族民や自分の部族の一員による幼児殺し)などによって多くの生命が奪われ、居住可能な地域の比較的条件のよい場所における人口密度は、1平方キロメートルあたり1人ぐらいに抑えられていたと思われる 幼児殺し(子殺し、嬰児殺し)は異常な状況だけに見られる社会病理ではない 今日でも、原始的とは考えられない社会も含め、さまざまな人間社会で行われている
それは多くの動物でも広く見られること
これは、進化についていまわれわれが知っていることから十分に予測されること
順位の高い雄は、他の雄を遠ざけておける限り、雌のグループに対する性的接触を独占できる
新しい雄が新妻たちへの愛情を示す方法は、彼女らの離乳前の子どもを殺そうとすること
子ザルを殺された母親はまもなく授乳が止まり、発情を再開する 雄の繁殖にとって潜在的な資源である母ザルは、子ザルの死によって即座に実質的な資源に変わる
雄による子殺しは、いつも必ず成功するわけではない
雌たちはしばしば姉妹や近親同士であるので、狙われている子ザルが生き延びることに関して、遺伝的な利益を共有している
したがって、母ザルは子どもを守るための助力を得ることができる
しかし、残念ながら雄は雌よりも大きくて、腕力でもはるかに勝っているため、たいていは子殺しに成功してしまう
授乳中の子を失った雌は、すぐに排卵を始める
雌は我が子を殺した相手の求愛を受け入れ、その雄は雌の次の子どもの父親となる
母なる自然として擬人化されてきたあらゆるものに、邪悪な面もあることが認識されるようになってきたのは、ごく最近のこと
野外で研究する生物学者たちが故意にそれらを無視していたのではないかと考えられる好例が、C・マレー・ラヴィックの1916年の南極ペンギンに関する研究の中にある 「多くのコロニーが、その周辺をうろつく『ごろつき』の小さな集団に苦しめられており、迷子になった雛は、ごろつきの手にかかって生命を失う可能性が非常に高い。ごろつきが犯す犯罪は、本書の中のどこにも場所を得ないたぐいのものである」 後世の多くの研究者と違って、ラヴィックは自分自身が検閲を行っている事に気づいていた
ハーディは、子殺しが広く見られる現象であることに、生物学者や社会学者、そして科学の知識を持った一般の人々の注意を向けさせた草分け的存在である
1977年の論文の多くの読者はそれに怒り、まるで信じようとしなかった
時代は変わった
デイリーがシデムシ科の甲虫がネズミの死骸の使用権をめぐって闘争することについての、ある生物学者の講演に出席したときのこと 雌のシデムシはネズミの死骸に卵を産み、産卵するために同じような死骸を探している他の雌からそれを守る ときには挑戦者が、守っている雌から死骸を奪うこともある
講演の終わりに、聴衆の一人が、そういうときには最初の雌の子はどうなるのかと質問した
講演者は即座に「もちろん」新しい雌に殺されてしまうと答えた
その他の倫理上の誤り
伝統的な宗教の多くは、今世紀に生物学の知識が蓄積されるにつれて、当然消滅するべきであるような概念を、いまなお持ち続けている
それらの誤りの一つは、死体は神聖であるという考えだろう
人が死ぬと、身内や友人は死体に道徳的な重要性があるかのように振る舞う
彼らは「最後に残ったもの」がただそれだけのもので、死んだ時点でたまたまその人間を表現する手段を提供していた物質にすぎないという事実を無視している
死体は神聖だとする誤った考えは、かつては、生物がもつ特別な生きている物質と考えられていた「原形質」(現在で言う細胞学状の原形質とは別物)という生物学の概念に裏付けられていた 他の物質は生きている細胞を出たり入ったりしているが、細胞の「原形質」は安定した存在で、物質のこうした流れを制御していると考えられていた
人間が死ぬと「原形質」も死ぬが、それはその人自身の本質的な「原形質」で、生涯を通じてその人のものだったと考えられていた
「原形質」は私が1940年代に生物学の講義を受けたときにはしばしば論じられていたことだが、今日ではこの言葉を聞くことはめったにない
人間の生命というものが単純に生物学的な構成で定義できるという考えは誤りであり、他の多くの誤りを含んでいる
ヒトに他の動物の器官を移植するといった行為に対し、倫理的に反対する声があがるの、こうした誤った概念のせいだ
欠陥のある心臓を取り出して、替わりにブタの心臓を移植された人は、どういうわけか完全な人間ではなくなると思われている なるほど生物学的には、その人は1%がブタで、99%しかヒトでないかもしれないが、人間としての希望や恐れや記憶を失わないかぎり、その人の生物学的な構成は、倫理的な側面とは何の関係もない
妊娠の瞬間について信じられることも、こうした類の誤り
ヒトの卵子と精子が結合する瞬間は、新しく生まれるヒトの独自の遺伝子型が決まる瞬間 新しく受精した卵子は、完全な人間という存在になる可能性は持っているが、可能性といえば、それは受精する前からあった
同じことは、これまでに起こったかもしれないすべての受精についても言える
一つの卵子に一つの精子が進入したということは、その精子と競争していた何百万におよぶ精子が死んだということを意味する
受精した精子は、独自の人間の遺伝子型を持っていた何百万という精子の希望を打ち砕いてしまった
妊娠の瞬間を人間の始まりに定義するという誤った考えは、哲学的に受け入れがたいだけでなく、生物学的に見てもあまりに単純だ
この考えは、受精が、起こったか否かにについて疑う余地のない単純なプロセスであると仮定している
瞬間といっても、実際は、それは数時間もかかる複雑な活動
精子と様々な層からなる卵子の膜との間には、生化学的に込み入った相互作用がある
精子は徐々に分解して、最後に細胞核だけが卵子のなかに定着する そして、卵子と精子双方の細胞核が大きく変化しはじめ、染色体が凝縮して移動し、二つの細胞核が合体する 合体したあとに展開する発生状の出来事の多くは、卵子の製造段階であらかじめ決定されていたもの
精子が提供した遺伝子の影響が外に現れるのは、十分に胚が発生しはじめてから 人間の始まりをはっきりとした一つの瞬間として定義するためには、このような複雑なプログラムの中で、卵子と精子が突然に一個の人間の生命を授けられるという、ある一時点を決めねばならないだろう
人間のいのちを、受精の瞬間と独自の遺伝子型の確立で始まると定義することには、これ以外にも困難がある
一個の人間の生命が発生してしばらくたって、分裂して一卵性双生児あるいは三つ子になったとしたら、彼らが物理的には別々の個体であるにもかかわらず、一人の人間としてみなされるべきだろうか 最近明らかになってきたことから、生物学上の個体性と道徳上の個体性との関係について、さらなる問題が提起される
二つの異なる受精卵からできた二卵性双生児が妊娠の初期の段階で合体し、物理的に一人の赤ん坊として誕生することもある 今日の分子技術を駆使すれば、このような個体は、身体の様々な部分が遺伝子的に違うということがわかるだろう
見た目は普通の女性が、双生児の兄弟として発生した、遺伝学的に男性の組織をも持っているかもしれないし、その逆もありえる
唯一の現実的な見解は、人間というものは徐々に作られるということ
子どもが言葉を習得し、それを使って自分の考えを他人に伝達するようになっていくことは、おそらくこの過程をもっともはっきりと示しているだろう
生命の始まりをこのように漸進的にとらえる考えは、個人的な決定や公共政策の策定にはあまり役に立たない
われわれは、人間の行動の指針として、また、だれに人権を与えるかを決める指針として、明確で単純なルールを求めている
月満ちて生まれた新生児に完全な人間性を認めることは、そうした単純なルールの一つだろう
そうすることが、最善のことであると主張するつもりはないが、胎児に何らかの権利を認めるよりも道理にかなっていると思われる
誕生前の胎児の権利に関する議論はどれも、人間性の定義蚊、あるいは胎児の行動特性について、生物学的には成り立たない定義の上になされている
人間の胎児にみられる能力のすべては、他の動物においても、同様な発生段階に見られるもの
ウィルソン宣言
(現代の生物学者は)自己に関する知識は、脳の視床下部および大脳辺縁系にある感情中枢によって制御され、形作られていると理解している。これらの中枢は、憎悪、愛情、罪の意識、恐怖などといったあらゆる感情をわれわれの自意識にどっと流し込むのだが、倫理学者は、それらをもとに直感的に善悪の基準を決めようとしている。そうだとすれば、視床下部や大脳辺縁系はどのように作られているのか、と訊かずにはいられない。それは、自然選択によって進化したものだ。この単純な生物学的事実は、認識論とその専門家とまでは言わなくても、倫理学および倫理学者とは何かを説明するために、あらゆる角度から追求されなければならない。 ウィルソンの著書は素晴らしい業績であり、おそらく今世紀(20世紀)において、哲学的にもっとも重要な意味を持つ生物学の研究と言えるが、完璧であるとはいえない
第一に、ウィルソンは最後に、視床下部と大脳辺縁系が倫理学とその関連テーマに対して持つ密接な関係について述べているが、その際に、自分が先に書いたことに十分に、また細部にいたるまで従ってはいない
第二は、先の記述そのものが理不尽に限定されていることだ
なぜ「自意識」であって、知識一般ではないのだろう?
なぜ感情にもっとも関連している大脳の部分だけなのだろうか?
なぜ、すべての神経系制御と認知機構ではないのだろう
そして、なぜ、倫理学と認識論だけなのだろうか?
彼は、自然選択が、遺伝子成功に寄与するように感覚や認知能力を形作り、それを維持しているのであれば、人間を含めてすべての生物は、ものごとを実際にそうである通りに直接、知覚しているとは限らないという、当然の推理を展開している
知覚は、役に立つ反応を引き出しさえすれば十分なのだ 我々の祖先は、生まれた場所から歩いて数日以上も掛かる場所にまで移動することはめったになかったし、天体を望遠鏡で見ることもなかった
彼らはおそらく地球を水平な円盤だと考えていただろうし、天空は、天体が毎日その上を決まった軌道にそって運行する丸い天井であると考えていたのだろう
これは往々にして有効な宇宙論であったし、生存と繁殖、子育てに関連した問題に不都合を引き起こすこともなかった
我々が感覚器官を持っているだけでなく、それを処理する装置を脳に備えているのは、そうした方が遺伝子成功に寄与するにほかならない
これらの器官は、天井及び地上の物体が実際にどんなものであるかを推測できるように進化してきたのではない
同じような制約は、すべての感覚と、我々自身や我々が住んでいる世界について推論するすべての能力にもあてはまる 自然選択でもたらされるような推論の能力は、われわれが生存して繁殖する助けとなる有効な結論を引き出すものでなければならない
それが、論理的な問題に関して真に正しい解答を導くとは限らない
彼らの研究は、人間の推論過程は、たとおえ形式論理学からすれば誤りと言えるものであっても、実際に役に立ち、直感的に正しいと感じる結論を引き出すことを示している たとえば、ロシアンルーレットをすればかならず怪我をするというのは、論理的には正しくない
したがって、そのようなゲームを避けるということは、論理的に導かれるわけではない
しかし、言うまでもなく、現実問題としては避けたほうが懸命である
更に興味深い発見は、論理的構造が同じで、解決しやすさも同じだろうと考えられるいくつかの問題に関するものだ
人はある種の人間関係がもたらす感情的なニュアンスをともなう問題の方が、はるかによく解決できる
人間の思考過程に生まれつき備わっっている制限という点で最も重要なのは、時間の経過に関する直感的感覚だろう
物理学者は、現在、時間は基本的な概念であり、時間尺度のある一部分は、たとえば全エントロピーとう点で、時間尺度の他の部分とは異なると考えている $ y = f(t)というかたちで表されるすべての方程式を考えてみよう
物理学的には、過去と未来との間に介在する現在という概念を裏付けるものは、実験的にも理論的にも見いだされていない
あたかも、宇宙が一歳の歴史的記録であり、どの章についても、前の章および次の章がどうなるかは完全に予測できるのだが、いまどこまで読んだかを示す栞は存在しない、というようなもの
未来は、過去に起こったことによってあらかじめ決められているだけでなく、ある意味で、すでにそこにある
私はこの見解に異議が出されるのは当然であると考えるし、反論は実際に出されており、将来はおそらく大幅に変更されるだろう
私はまた、歴史を参考にするならば、将来物理学者が考える時間の概念は現在もっているものよりも直感的にわかりにくいものになるだろうと考えている
人間が直感的に現在というものを感知するという問題について、何らかの解決策を期待する根拠があってほしいと私は思う
「いつか、物理学は、われわれが現在と称するものを知覚せずにはいられないこと、歴史を通してそれが動いていくことを知覚することに関して、何らかの説明を与えられるようになるだろう」
D・S・ウィルソンに従って、私は、なぜ人が直感的知覚を持っているのかを、自身を持って説明することができる それは、遺伝子成功に役立っていたからだ
私はこの考えに、科学的に有効な数式を与えることはできない
しかし、これは、明確に定義された疑問の答えを正確に予測できるような理論的モデルであるという意味である
デイヴィスと同じように私も人間の時間の概念を説明できるような大きな進歩があることを期待してやまないが、それを実現するのは、物理学者ではなく生物学者だろうと思っている
それをもたらすのは、物理的な時間の概念と自然選択の生物学的原理の両方を理解し、それらを一つにまとめ、本章の冒頭で述べたアリスの制約を説明することができる、若くて頭脳明晰な生物学者であるに違いない
領域の混同
「『である』ということから『べき』ということへの滑り込み」という哲学者のデイヴィッド・ヒュームの言葉を体現している 記述的言明から道徳的な指令は導かれないと主張した
巧みにカムフラージュされていることが多いが、滑り込みは常に存在する
領域の混同とでも呼べるような、もっと一般的な誤りの中の特殊な例と言える
領域とは存在のある側面で、たとえば、物質的宇宙はその一つであり、宇宙については、ある一定の記述語を用いて議論することができる
物質を表現するための適切な記述語は、長さや質量などがある
これらの用語をいくつか組み合わせると、他のものを定義することができる
密度であるとか、質量に比例するもの、三辺の長さの積に反比例するものなど
しかし、他の領域に特有の記述語を使って、別の領域に関する結論を引き出すことはできない
では、いくつの領域があるのだろうか
私は今の所4つあると考えている
「物質的」「道徳的」「精神的」「記号的」
私は、いつまでも混乱がやまないのは、人々が領域の混同を犯しているからであると主張したい
時間というものは、どの領域においても基本的な記述語となっちるため、異なる領域で生じた出来事を時間的に並べることは容易である
メッセージ(記号的)は、それがまず知覚され(精神的)、次に行動(物質的)へとつづくかもしれない
ある領域の出来事について、別の領域の前提からそれを説明したり推論したりするには、時間の順番だけでは不十分である
時間順に並べた出来事そのものに適用できる記述語が必要となる
記号(code)という言葉は「文書」を意味するラテン語から生まれたもので、記号的領域は情報の領域である 生物学上の議論は、往々にして、物質の概念と記号の概念とを無節操に混同している
たとえば「遺伝子」という言葉は、ときにはDNA分子を意味するように使われるが、ときには、分子の塩基配列からなる記号化されたメッセージと言う意味で使われる 私は「遺伝子」という言葉はメッセージだけを指すために使われるべきで、DNAは、メッセージが一般に保管されている物質的な媒体と考えられるべきだと思っている
RNAやタンパク質などの媒体で表現されるし、現在ではA,C,G,Tの記号の配列として紙に書くこともできる しかし、媒体がどんなに異なっていても、メッセージは常に同じ
最近では、物質と記号と精神という三領域の混同がずいぶん流行っているようだ
それらの書物は、膜を通過する電荷や、ホルモンや神経末端の分子構造とホルモンの分子構造の相互作用など、神経細胞で進行しつつある物理的な経過に関する議論から始まっているのだが、そのうちに著者は記号領域に滑り込み、神経細胞が行う情報処理がどのようにすばらしいかを述べたてる
しかし、著者が媒体について論じているのか、メッセージについて論じているのかの区別が明確であることは、ほとんどないといってよい
そして、複雑な文章を並べて、喜びや心配といった精神領域に固有の概念をめぐる議論に滑り込んでいく
こうした非論理的な飛躍をもとに、著者は、精神的な現象に対して物理的な説明が与えられたと主張する
領域の混同を避けるのは難しい場合もある
日常語であっても二つ以上の領域で使われていることが多いからだ
重荷は普通キログラムで量ることができ、正しくは物質的概念である
悲嘆の重荷は明らかに隠喩的な用法であり、だれもこの種の重荷をキログラムで量ったりはしないだろう
残念なことに、このような隠喩表現が一般的に受け入れられ、広まっていることによって、領域間の滑り込みが促進されるのである
問題は思っている以上に難しいのかもしれない
ある表現が文字通りの意味なのか、隠喩的な用法なのかを判断するのも、必ずしも簡単ではないから
罪悪感は、自分自身に関する感情(精神的)でもあれば、裁判の判決(記号的)でもあり、避けるべきもの(道徳的)でもあり得る
私の個人的な感覚としては、罪悪感は、文字通り精神現象であるのがほとんどで、道徳的領域と記号的領域には、比喩的にのみ使うのが有効であると思う
この章の初めに、私はE・O・ウィルソンを、人間の特性や現状を理解する上で自然選択の理論を充分に活用していないようだと批判した
同じことを自分で試みた今は、以前よりも批判的でなくなった
これはとてつもなく大きな課題で、どんなに追求しても終わりをみることはないだろう
私達は、それに挑戦することしかできないし、実際に挑戦しなければならないのだ
自然選択は、生物界にあまねくかかわる重要なプロセスであり、私達ヒトもそれに含まれ、そのプロセスに完全に依存している
進化生物学の進歩とその応用は、おそらく医学や環境にかかわる問題に最も明らかな影響を与えるだろうが、そもそも、進化についての理解なくしては、人間に関する問題は、何一つ解けないのである